支払うべき最低限のコスト
ここまで解説した印象操作術を実践するにあたって最大の障壁となるものは、他人からの「見られ」。つまり、 周りからどう思われるかという不安の気持ちだと思います。
しかし、印象操作術を実践して成果を得るためには、抵抗感や葛藤という最低限の代償(精神的な負荷)を支払う必要があります。
それでもパワハラや叱責などの攻撃を受けた時の精神的な負荷に比べればずっと軽く、得られるメリットからすれば「費用対効果」の非常に高いことです。(第一、攻撃を受ける負荷よりも高かったらやる意味がありません)
もし、態度を強めて積極的に取り組む姿勢を出すのに抵抗感や葛藤が無ければ、この項目は無視して構いません。しかし、やるのに躊躇する気持ちがある場合、「見られの克服」というテーマを持ってください。
「見られ」を克服することの余りに大きな価値
これまで「見られ」を気にして生きてきた人にとって、この機会は自分を変えるまたとないチャンスでもあります。
何をするのにも「見られ」を気にすると行動が萎縮します。それによって、他人との関わり方、物事への取り組み方、何か新しいことにチャレンジすることなどに対して消極的になってしまいます。それが人間関係の問題を生み、良い機会を逃し続け、物事をうまくいかせるのを邪魔しているのです。
職場内においてもその特性は仇になりやすく、わざわざ自分で自分にハンデを課してしまう結果となります。(パワハラや不当な叱責の被害に遭いやすい人は、この特性を持っている人が少なくないと思います)
他人の目を気にしすぎる人にとって、多少の「見られ」を克服することは、人生における波及効果が非常に大きいことです。人生が変わる(好転する)と言っても決してオーバーではありません。
印象操作術を実践するのはそのための訓練でもあると考え、前向きに捉えることが大切です。必要に迫られて仕方なくやるのではなく、意欲的になれるだけの大きな価値があることをよく自覚しましょう。
私も本来、非常に「見られ」を気にするタイプです。しかし、パワハラ被害から逃れたい一心で始めた印象操作術を実践して数年が経ったときに、「見られ」を気にしすぎる性分がかなり「マシになった」ことに気がつきました。多少マシになった程度ですが、それでも相当に変わったと思います。これは自分の人生においてかけがえのない財産になったと思うほどです。
自分のウイークポイントを直そうと思っても、なかなか実行できるものではありませんが、必要に迫られている今がチャンスなのです。
「見られ」は気にしなければ良いというものではない
なお、誤解がないように申し上げておきますと、「見られ」を気にするということが一概に悪いということはありません。
パワハラなど、他人を平気で攻撃できる人間というのは、逆に「見られ」を気にしなさすぎることが問題です。私も「あんな振る舞いや言動をしておいて、よく周りからどう思われるかを気にしないな」と(悪い意味で)感心したものです。(実際、良い印象を持たれるはずはありません)それを少しでも気にしていたら、あのような行為は簡単にはできないでしょう。
「見られ」を気にしすぎるのは完全な一人相撲となり、自分を苦しめるだけの結果となります。一方、「見られ」を気にしなさすぎると必要な自制が利かず、他人に迷惑をかけることにもなります。つまり「見られ」というのは、気にしすぎるのも気にしなさすぎるのも問題があるということです。
そして、職場における力関係においては、自分の振る舞いが他人からどう思われようが一切気にしない(「見られ」を気にしない)人間の方が有利です。より大胆に振舞える人間の方が相手を押し切れるからです。しかし、そこまでになる必要はありませんし、なってもいけません。