実際に一所懸命やることにより叱責の正当性を無効化する
実はもう一つ、やる気のある姿勢を出して取り組むという行為には隠れた重要な意味があります。これは、攻撃回避とは直接的には関係ありませんがとても大事なことです。
それは、一所懸命に取り組むことにより、叱責を受けても自分は間違っていないという確信を得ることができることです。
あなたが実際に一所懸命に取り組むことにより、間違いや遅延などは全て「過失」になります。余力を残して(一所懸命にやらず)出したミスや遅延は、軽率であったという可能性が残り、叱責の正当性が入り込む余地があります。つまり、一所懸命に取り組むことによって、あなたは「間違えても怒ってはいけない人」になれるのです。
本人が一所懸命にやったのにダメだった場合、もしくは良かれと思ってやったことが結果的に間違いだった場合などに上の立場の人間がするべきことは、次はうまくやれるように支援やアドバイスといったサポートをしたり、激励をしてやることなのです。
結果だけしか見ず、叱責をしたり怒りを向けることは仕事へ真摯に取り組む姿勢が足りず、軽率であると勝手に決めつけることであり、一所懸命にやった人を大いに失望させる行為です。真摯に取り組む貴重な人材に対し、わざわざそのやる気を削ぐような対応をするのは愚の骨頂であり、人の上に立つ人間として失格なのです。(人間である限り、どれだけ一所懸命にやっても間違いはゼロにはなりません。怒ったところで急に能力が高まったり、間違いがゼロになるわけではありません)
不満感情に任せて、平気で正当性と合理性のない叱責をする人間は世の中にごまんといます。ですがそれと同様に、世間には一所懸命に取り組まないで問題を出す人も多いため、不当な叱責やパワハラという許されるべきではない行為が有耶無耶にされやすく、その結果、世に蛮行が蔓延ることになってしまっているのです。
こちらが一所懸命にやれば、不要な叱責における正当性が見せかけであることを証明することができます。つまり「状況の正当性を装って不要な攻撃をするロクでもない奴をあぶり出す」ということが可能になるのです。
確信を得てトリックに騙されないようにする
それでも簡単に怒るような人間はそんなことに気がつきません。気がつく訳もありません。「普段、一所懸命にやっているから、怒りたくてもここは堪える必要がある」「一所懸命にやられたら、怒りたくても怒れない」などと感じることはないのです。何の自覚も反省もなく、堂々とやり続けるでしょう。
しかし、分からせる必要はないのです。一所懸命に取り組んだ上で攻撃されたら「やっぱりな、相手の人間性の問題だ」とあなたが確信できれば良いのです。叱責などされてネガティブな感情を喚起されると、自分に非がある感覚に陥ってしまうものです。ですが、それは単なるトリックです。そのような錯覚に陥りやすいだけだとよく理解してください。それで自分はデキが悪いなどという思い込みを持たせられたら相手の思う壺です。
その代わりに一所懸命に取り組むことは、演技だけではいけなくなります。自分に噓偽りなく一所懸命に取り組むことが必要になります。叱責から逃れるために一所懸命にやるフリをする場合がありえることが当然になってしまうと、結果だけで叱責することに正当性と合理性を与えてしまう余地ができてしまうからです。
一所懸命に取り組む演技を意識的に取り入れるのは、それを分かりやすく伝えるためであり、決して一所懸命にやっていないのをそう見せかけることが目的ではないということを忘れてはいけません。